アニメ業界・冬の時代

何かのデータに基づいての意見でもなく、業界にいる“体感”としてのタダの感想文にすぎないのだけれど(何とも歯切れの悪い言い回しだが)、アニメ業界は遂に冬の時代に突入したんじゃないかと思う。
私事だが自分のいる会社も仕事が減り、周りの制作会社でも良い話を聞かない。そもそも“良い話”なぞないのだが、今までの悪い噂(あのスタッフが駄目だとか)とはまた異なった話(某制作会社が給料未払い状態になっているなど)が聞こえるようになってきた。
昨年後半から雲行きが怪しくなり今年も新番は少ない。
毎年何故だか制作本数は右肩上がりのアニメ業界で、「いつかは減る。」とずっと言われながらもなんだかんだで増えていた状況が遂に壊れた、という訳だ。
この状況下で仕事が減っていない(寧ろ増えている)制作会社は、上にメーカーサイドが付いている会社が殆どである。
サ○ラ○ズさんならバンダイ、東○ム○ビー(ト○ス)さんならサミー、A○ピ○チ○ーズさんならアニプレックス、アー○ラ○ドさんならマーベラス、などなど。

末端の現場スタッフからすれば、本数が増えようと減ろうと関係ないし、寧ろ暇になってくれた方が良いもんだが、いざそうなると寂しいものである。

ネガティブ・キャンペーンをしても意味がないのだけれど、良い意味で捉えれば“淘汰される時期”に突入されたのだろう。

制作本数が減った事だけでなく、作画のクオリティも求められ、総作監制を敷く事がここ数年で確実に増えた。それでフィルム全体のクオリティは確かに上がる。が、制作工程が一つ増えた事でスケジュールは壊れやすくなり、フリーの自宅作業しているアニメーターさんたちにしてみればLOの戻りが遅くなることで(果てはLOが戻るのに一ヶ月待ちなど)、その一話分の仕事が長期間化し、戻りが読めないので他の仕事も取りづらいと、食いっぱぐれる事も多くなったんではないかと思う。

求められる高いクオリティは現場の崩壊と紙一重ではあるのだけれど、かと言ってそうした時流が良い場所(会社)・良い人材まで淘汰しなければ良いものだ。

2008年01月13日 アニメ トラックバック:1 コメント:0

葦プロが社名変更していた

株式会社 PRODUCTION REED

いつの間にかの社名変更で驚きました。
HPを見る限り、新社長就任によるものらしい。
でも、葦プロの語呂が良いよなー、と思ったり。

それにしても、その昔、葦プロがラーメン屋を経営していたって言うのは本当なのだろうか。

2007年11月29日 アニメ トラックバック:0 コメント:3

アニメ作品に於けるルール

ウチの会社にいる演出家さん達と「ヱヴァ新劇場版」の話になり盛り上がっていた、そんなある日の事。
その中のベテラン演出家のMさんがこう切り出した。

「前から気になったんだけど、エヴァが出撃する射出口っておかしいよね。ゲンドウやミサトさんがいる指令所って、ジオフロントのほぼ中心部の地下にあるんでしょう?そして、そのすぐ近くにエヴァの射出口があるはずじゃん、本編を観てると。だとするなら、そのまま垂直にエヴァが発射すると、ジオフロントに出ちゃうよね。もし、第三新東京市に出るとするなら、相当迂回しなきゃいけないはずなのに。」

なるほど、僕みたいなリアルタイム世代にとって、散々っぱらエヴァに対する否定的発言を聞いてきたし、つまんない揚げ足取りにも辟易していたが、これはそうしたものとは一線を画した、あくまで作り物の齟齬に対する的確なツッコミに、思わず舌を巻いた。
“終盤の展開がどうのこうの”はウンザリする程聞いたが、こうした物言いは意外と少ない。

TVシリーズの第拾九話「男の戰い」を踏まえると、「発令所」のすぐ隣にエヴァ初号機の格納されている「第7ケージ」があり、そのすぐ近くに「射出口」がある事が判る。
勿論、射出口が地下施設内に何箇所も点在していても何ら不思議ではない、というか無数に張りめぐられているに違いない。
射出口の路線図が本編で幾度か登場し、若干迂回している描写もあるが、のちに「黒き月」がジオフロントの地下に眠っている事を考えただけでも、あの巨大な地下空間を迂回して地上の第三新東京市に出るには、些か描写不足だろう。垂直だけではなく、真横に発射している初号機の描写もあって良いハズである(画的に映えないが)。
ちなみに新劇場版に於いても(現時点では)、このリフト・オフ描写に変更はなかった。

つまり、こう考えるのが適当じゃないだろうか。
【エヴァが一旦、射出口に乗りリフト・オフすると、何処にでも出られる。】
極論だが、エヴァゲリオンの射出口は「どこでもドア」に等しい。
筆者の妄想だが、コンテ発注時に庵野監督は樋口真嗣さんや甚目喜一さん(佐藤順一さん)たちに「エヴァが射出口に入ったら、何処にでも出ちゃって良いんで。」なんて言ったに違いない。

今更云う事でもないが“EVAシリーズの身長が設定されていない”ように、この作品はある程度設定的に緩くしてある。これはつまり、1カット、1カット、画的に映えるように調整する、と云うと聞こえは良いが、乱暴に云うならば、都合良くエヴァの大きさを変えられる、と云う事である。
しかしながら、エヴァの身長設定、及び射出口の位置関係など、その整合性をガチガチに切り詰めたところで、お話が面白く訳でもないし、作り手サイドもその整合性が取れていない事の“粗”が目立つようには決して見せていないのだ。


こういった事は、様々なアニメ作品に個々に・独自に“ルール”として敷かれている。
では、下の図を見て頂きたい。
doors.jpg

筆者の落書きで申し訳ないが、それはさておき、以前こういう事があった(私事で恐縮でもある)。

別の部屋からキャラクター・Aが「ただいま〜」とカメラの置いてある部屋に元気よく入ってくるカットを、コンテマンが描いてきた。
それだけ聞くとなんて事はないが、美術設定で決められた、そのドアはカメラが置かれた部屋から見て外開きのドア(外開きの図参照)だったのだ。
つまり、設定とは違う、内開きのドア(内開きの図参照)をコンテマンはコンテで描いてきたのだ。
そもそもシナリオ上も「Aが元気に登場。」となっており、“元気に”を演出するには、必然的に内開きにした方が良いに違いはない。ドアを押してバーンと登場する方が気持ち良い。しかし、設定とは違う。
逆に外開きにしてしまうと、どうしてもAに対して後ろ向きな印象を受けてしまう。

「監督、美術設定と違うんですけど、どうしましょう?」と恐る恐る聞く、筆者。
「内開きで良いよ。話数内で統一されていれば。それに今後の話数でも、都合良くどっち開きか変えて良いんじゃない。」とその監督はサラっと云った。

既に放映済の他の話数では、当然設定の通り、外開きになっていたが、その話数は内開きになった。ただそうした場合でも、その同じ話数内で同じドアが外開きになったり、内開きになったり、明らかに観ている人が「?」とならない為にも、監督は「話数内で統一」と云ったのである。

内か外か、引き戸か、はたまた自動か。
ドアの開閉方法一つで、キャラクターの芝居が変わってくるのだ。(似た事例を挙げるなら冷蔵庫のどっち開きか、などもある)
ギャグ作品であれば、毎回ドアがどちら開きになろうと構わないが、ハードSFだと、ちと辛い。
作品のテイストがどちらかを選ぶ場合もある。
アニメーション制作の過程の中で、こうした局面はしばしば登場し、次第にその作品の“ルール”が出来あがってゆくのだ。
主にそうしたルールは監督が作り上げてゆくモノである。

もし、設定に忠実にする監督であれば、先程の例に挙げたドアの開き方は設定通りで、そのカットのコンテを切り直し、別の演出の仕方を模索しなければなかったであろう。
逆に、画面的・演出的なものを優先するフリーキーな監督も一方でいるのだ。
どちらが正しいという訳ではない。要は何を見せたいのか。
また、どういった見せ方がその作品にとって“都合が良い”のか。
時には設定も物理法則も無視して、フィクションとしての“都合の良さ”を最優先し、視聴者に嘘をつく行為。それは視聴者にとって“気持ち良い嘘”でなければならない。
アニメにおける“ハッタリ”とは、こういう事を差すのだ。


最後に、これを読んでくれた貴方へ。
スーパーアニメーター独特の作画回を「作画崩壊だ!」などと揚げ足を取るよりも、「ドアの開閉が違う!」などと整合性のホツレを見つけ、罵詈雑言を浴びせてみては如何だろうか。

2007年11月23日 アニメ トラックバック:0 コメント:11

元・猿○石の森○が某アニメ会社で営業しているらしい

人づてで聞いた噂。
某グロス会社の営業として働いているらしい。
「ウチの動画と仕上げは・・・」云々と営業して回っているらしいが、果たしてアニメの制作過程を理解しての事なのだろうか。
しかし、何でまたアニメなんだろう・・・

2007年11月03日 アニメ トラックバック:0 コメント:2

ポジトロンスナイパーライフルから陽電子砲へ

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の公開前。
海洋堂のリボルテックシリーズにて、山下いくと氏による新たに起こされた「大出力型第2次試作自走460mm陽電子砲」、及び「エヴァンゲリオン専用単独防御兵装 ENCHANTED SHIELD OF VIRTUE」が発表された時、“この洗練されたデザインは何だ!?”と小粋なエヴァファンなら違和感を感じたはずだ。
限られた時間内での使徒・ラミエル撃退の為、急遽筑波の戦自研が試作していた「試作自走陽電子砲」をネルフが徴用。それを元に「Eva専用改造陽電子砲Nerv仕様(ポジトロン・スナイパー・ライフル)」としてエヴァ用に急造した。零号機が使用する「耐熱光波防御盾」にしてもSSTOの底面を加工した(覗き穴まである)急造品。
そうしたTVシリーズの流れを知る者なら、“急造品なのに、前もって用意されたかのようなデザインは何だ!?盾なんて零号機とカラーリングまで統一されてるじゃねーか。”とケチも付けたくなる。
あの無骨なデザインが緊迫した状況を演出するのに一役買っていたのだ。

“新劇場版は、急造しなくとも良い新展開が待っているのか!?”などと筆者は妄想したが、結局は新劇場版も兵器調達の流れに大きな変更はなかった。


ではここから、デザインを変更した理由を“独断と偏見”で考察してみよう。


●ビジネス的な観点

・グッズなどの販売展開の為
これが最も可能性が低い。
それを本気でしたいなら、中途半端にエヴァのカラーリングを変更したぐらいではなく、丸ごと新デザインをやるだろう。
そもそも『ヱヴァ新劇場版』の配給は独立系(単館系)のクロックワークス、そして基本的にカラー(つまり庵野さん本人)による自社配給で、以前のエヴァも近いものがあるが、所謂スポンサーの都合・要請というのは極めて希薄だと思われる。制作サイド以外からの“横槍”を極限まで回避する、ある種理想的なモノ造りの場を形成する上でも、今回カラーを立ち上げたと筆者は邪推する。

劇中でキリンビールや山口県の地酒などが登場してくるが、単に宣伝の為という一過性な要因よりは、アナログからデジタルに移行して、現実にある素材を使いテクスチャーとして簡単に貼れるようになった上に、あたかも実写映画のように、現実にある物を小道具の一つとして、アニメで登場させるというスタッフの“遊び心”からだろう。


●設定的・演出的・作劇的理由

・台車の位置、及び砲身の太さ修正
ポジトロンライフルは、二台連結した台車が前部、後部台車が一台。
陽電子砲は前部台車一台、後部台車が二台(連結していない)。
あの日本中を停電までして得た大出力エネルギーを支える為には、どう考えても陽電子砲の方が砲身が安定している。また砲身自体も恐らく同様の観点からだろうが、陽電子砲の方が太くなっている。
余談だが二子山頂上の狙撃地点にわざわざ初号機の両足先を引っ掛けるクボミを追加している事からも、今回は丁寧に設定的な補助を施している。

・冷却器の追加
新劇場版においてヤシマ作戦の多大な緊迫感を産み出しているものの一つが“煙”である。莫大な電力を扱う事の意味を、陽電子砲とその周囲を漂う熱気が演出しているのだ。逆を云えば、多大な熱を帯びる事になる陽電子砲に冷却器を追加しなければ、狙撃する前に溶ける、とは云わないまでも使い物にならないとも限らない。冷却器を加えた事でアニメ的な説得力とハッタリを利かしている。
またアニメがデジタルに以降して、セルそれ自体の透明度を簡単に弄れるようになった事から“煙”の表現がリアルになり(勿論作画的技量も欠かせないが)、更に撮影時にパーティクルとして“煙”を追加、セル重ねにも制限がなくなった為、より重層的・重厚的に表現出来るようになった。“煙”はデジタルの恩恵を受けた表現の一つと言って良い。それは、アナログからデジタルに生まれ変わったヱヴァを魅せる上でも、欠かせない表現である。

・最大の理由、重量。
第一射後、ラミエルの反撃を受けるエヴァ初号機。
パイロット・碇シンジは泣きながらも友人の言葉を思い出し、必死に、陽電子砲を抱え、立ち上がる。
観客の誰もが鳥肌に襲われる、本作最大の見せ場である。
これを成立させる(演出させる)上でも、陽電子砲それ自体にある程度の重量を持たせないと、カタルシスは産まれない。
以前のポジトロンスナイパーライフルはデザインのシンプルさが急造された事を物語っていたが、この新劇場版のヤシマ作戦に於いては些かボリュームに欠けてしまう。
先に挙げた、台車位置・砲身の太さ修正、冷却器追加などは言うなれば、このクライマックスに必要不可欠な陽電子砲の重量を表現するディティールアップの一環である。


・盾について
新劇場版では名称通り最初からエヴァ専用であるらしくハナから急造品でない。カラーリングは零号機と同じだが、作戦前の赤木リツコの台詞を考慮すると、砲手が零号機、防御を初号機になっていたかもしれない可能性もあり、キレイに論理付けるのはちょっとツライ。(まぁ作戦前にカラーリングを塗り替えたか、死海文書にヤシマ作戦に於ける砲手と防御の担当ですら定められていたなんて言うのも可能性大だが・・・)
バンカーが付き、ラミエルの加粒子砲をより外に逃がす形状になり、更に単に融解してゆく一枚盾の「耐熱光波防御盾」よりも、溶けながらもパーツが派手に散る「単独防御兵装」の方が、ラミエルの第二射を劇的に演出している。


以上が筆者の身勝手な考察である。
筆者、物理的な事もよく判っていないが、設定で定められた画一的な陽電子砲の重量数値などは知りもしない。が、そうした所謂「設定的」な思考ではなく(そこを気にしても無駄だし嫌いなので)、あくまで「演出的・作劇的」に頭を働かせてみたつもりだ。
総括すると、新劇場版は画的に・映画的に映える方を当然ながら優先している。
また「設定」とは本来そうあるべきであるが、「設定に忠実≠リアル≠面白い」でもなく、本末転倒に陥りやすい。

2007年10月23日 アニメ トラックバック:0 コメント:1

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