『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の公開前。
海洋堂のリボルテックシリーズにて、山下いくと氏による新たに起こされた「大出力型第2次試作自走460mm陽電子砲」、及び「エヴァンゲリオン専用単独防御兵装 ENCHANTED SHIELD OF VIRTUE」が発表された時、“この洗練されたデザインは何だ!?”と小粋なエヴァファンなら違和感を感じたはずだ。
限られた時間内での使徒・ラミエル撃退の為、急遽筑波の戦自研が試作していた「試作自走陽電子砲」をネルフが徴用。それを元に「Eva専用改造陽電子砲Nerv仕様(ポジトロン・スナイパー・ライフル)」としてエヴァ用に急造した。零号機が使用する「耐熱光波防御盾」にしてもSSTOの底面を加工した(覗き穴まである)急造品。
そうしたTVシリーズの流れを知る者なら、“急造品なのに、前もって用意されたかのようなデザインは何だ!?盾なんて零号機とカラーリングまで統一されてるじゃねーか。”とケチも付けたくなる。
あの無骨なデザインが緊迫した状況を演出するのに一役買っていたのだ。
“新劇場版は、急造しなくとも良い新展開が待っているのか!?”などと筆者は妄想したが、結局は新劇場版も兵器調達の流れに大きな変更はなかった。
ではここから、デザインを変更した理由を“独断と偏見”で考察してみよう。
●ビジネス的な観点
・グッズなどの販売展開の為
これが最も可能性が低い。
それを本気でしたいなら、中途半端にエヴァのカラーリングを変更したぐらいではなく、丸ごと新デザインをやるだろう。
そもそも『ヱヴァ新劇場版』の配給は独立系(単館系)のクロックワークス、そして基本的にカラー(つまり庵野さん本人)による自社配給で、以前のエヴァも近いものがあるが、所謂スポンサーの都合・要請というのは極めて希薄だと思われる。制作サイド以外からの“横槍”を極限まで回避する、ある種理想的なモノ造りの場を形成する上でも、今回カラーを立ち上げたと筆者は邪推する。
劇中でキリンビールや山口県の地酒などが登場してくるが、単に宣伝の為という一過性な要因よりは、アナログからデジタルに移行して、現実にある素材を使いテクスチャーとして簡単に貼れるようになった上に、あたかも実写映画のように、現実にある物を小道具の一つとして、アニメで登場させるというスタッフの“遊び心”からだろう。
●設定的・演出的・作劇的理由
・台車の位置、及び砲身の太さ修正
ポジトロンライフルは、二台連結した台車が前部、後部台車が一台。
陽電子砲は前部台車一台、後部台車が二台(連結していない)。
あの日本中を停電までして得た大出力エネルギーを支える為には、どう考えても陽電子砲の方が砲身が安定している。また砲身自体も恐らく同様の観点からだろうが、陽電子砲の方が太くなっている。
余談だが二子山頂上の狙撃地点にわざわざ初号機の両足先を引っ掛けるクボミを追加している事からも、今回は丁寧に設定的な補助を施している。
・冷却器の追加
新劇場版においてヤシマ作戦の多大な緊迫感を産み出しているものの一つが“煙”である。莫大な電力を扱う事の意味を、陽電子砲とその周囲を漂う熱気が演出しているのだ。逆を云えば、多大な熱を帯びる事になる陽電子砲に冷却器を追加しなければ、狙撃する前に溶ける、とは云わないまでも使い物にならないとも限らない。冷却器を加えた事でアニメ的な説得力とハッタリを利かしている。
またアニメがデジタルに以降して、セルそれ自体の透明度を簡単に弄れるようになった事から“煙”の表現がリアルになり(勿論作画的技量も欠かせないが)、更に撮影時にパーティクルとして“煙”を追加、セル重ねにも制限がなくなった為、より重層的・重厚的に表現出来るようになった。“煙”はデジタルの恩恵を受けた表現の一つと言って良い。それは、アナログからデジタルに生まれ変わったヱヴァを魅せる上でも、欠かせない表現である。
・最大の理由、重量。
第一射後、ラミエルの反撃を受けるエヴァ初号機。
パイロット・碇シンジは泣きながらも友人の言葉を思い出し、必死に、陽電子砲を抱え、立ち上がる。
観客の誰もが鳥肌に襲われる、本作最大の見せ場である。
これを成立させる(演出させる)上でも、陽電子砲それ自体にある程度の重量を持たせないと、カタルシスは産まれない。
以前のポジトロンスナイパーライフルはデザインのシンプルさが急造された事を物語っていたが、この新劇場版のヤシマ作戦に於いては些かボリュームに欠けてしまう。
先に挙げた、台車位置・砲身の太さ修正、冷却器追加などは言うなれば、このクライマックスに必要不可欠な陽電子砲の重量を表現するディティールアップの一環である。
・盾について
新劇場版では名称通り最初からエヴァ専用であるらしくハナから急造品でない。カラーリングは零号機と同じだが、作戦前の赤木リツコの台詞を考慮すると、砲手が零号機、防御を初号機になっていたかもしれない可能性もあり、キレイに論理付けるのはちょっとツライ。(まぁ作戦前にカラーリングを塗り替えたか、死海文書にヤシマ作戦に於ける砲手と防御の担当ですら定められていたなんて言うのも可能性大だが・・・)
バンカーが付き、ラミエルの加粒子砲をより外に逃がす形状になり、更に単に融解してゆく一枚盾の「耐熱光波防御盾」よりも、溶けながらもパーツが派手に散る「単独防御兵装」の方が、ラミエルの第二射を劇的に演出している。
以上が筆者の身勝手な考察である。
筆者、物理的な事もよく判っていないが、設定で定められた画一的な陽電子砲の重量数値などは知りもしない。が、そうした所謂「設定的」な思考ではなく(そこを気にしても無駄だし嫌いなので)、あくまで「演出的・作劇的」に頭を働かせてみたつもりだ。
総括すると、新劇場版は画的に・映画的に映える方を当然ながら優先している。
また「設定」とは本来そうあるべきであるが、「設定に忠実≠リアル≠面白い」でもなく、本末転倒に陥りやすい。
2007年10月23日 アニメ トラックバック:0 コメント:1
としまえん、札幌、豊橋の三ヶ所のユナイテッドシネマで現在、劇場アニメ特集を組んでいる。
絶対に見逃すな!傑作アニメセレクションvol.1
早速だが先日『AKIRA』を観に行った。
DVDも持っているし、何度も観ている。
今更ではある。
が、入場料も安い、なおかつ映画館のスクリーンで観たいと云う欲が勝った。
気掛かりだったのは、上映に使用されるフィルム。
確か2001年に、DVD販売前の宣伝も兼ね、映画祭やイベントなどで使用されたフィルムはデジタル修正版としてニュープリントされたものであったと推測され、そのフィルムであれば、DVDと同じ仕様である5.1chであるし、フィルム自体の状態も良いものであろう。それに公開当時のフィルムはもう残ってない可能性は高い、故に比較的新しい2001年度版フィルムで上映するのだろう、と考えていた。
が、上映が始まると、カメラがPAN UPしていって東京の都心の大爆発を無音で見せる1カット目の時点で、ノイズが常時「シャーシャー」鳴り(おもわず笑ってしまうぐらいだった)、フィルムの状態も傷や埃でお世辞にも良い物ではなかった。
つまり、公開当時のフィルムを上映したと思われる。
しかし面白いのは、【劇場で公開当時のフィルム】と【その後、世に出たソフト版】とでは、かなり違いがある事に、まず驚かされた。
とりわけ大きな変更点は、冒頭の「大友克洋」のテロップと最後のエンドロールが、オリジナルは日本語表記であるが、DVDでは英語表記である。
であるから、オリジナル版の方があの錚々たる原画マンの名前が確認しやすい事になる。
そしてオリジナル版では、エンドロール後にバイクの音が「ブォン!」と鳴って終わるというもので、DVDではこのSEは外されている。
これらは作品を演出する為の変更点である。
しかしこれ以外にも、
・色の塗り間違いによる色パカしているカット(これが相当多かった印象を受けた)
・本来フェードアウトするカットが何故かカット尻またフェードインしてしまうカット(おそらく撮影ミス)
・明らかにSEとセルの動きがズレているカット
等々、劇場公開にとにかく間に合わす為に細かいリテイクを修正出来なかった当時の逼迫した制作状況を垣間見せる、云わば“リテイクカット”も相当数あった。
帰宅後、更にDVDを見返して確認すると、先ほどの明らかなリテイクカットもほぼ修正されており、なおかつカメラワークやフレームを修正したカット、こまかく作画を追加・修正したカット、CGを追加しているカットなど自分のおぼろげなオリジナル版の記憶と照らし合わせただけでも、そのオリジナルとソフトの相違は明らかであった。
Apple Paradise: OTOMO KATSUHIRO: Movies: Movie "AKIRA"
上記のファンサイトを見ると、ソフト化における詳細な経緯が掲載されている。
>映画公開後、時間的な理由で納得がいかないまま公開することになってしまった、200に及ぶカットのリテイクが施されました。また、音声トラックもリニューアルされているようです。このヴィデオのリリース後、ヨーロッパの国際映画祭に出品予定だったため、このバージョンは「国際映画祭参加版」と命名されました。
>カットのリテイクは公開までに時間的制約で納得がいかなかった部分や、撮影時のミスなどの修正でした。
なるほど、200カットも直せば、道理でフィルムの印象も違うはずだ。
今でこそ、ソフト化の為に(ソフトを売る為にも)リテイクする事は当たり前だけども、1988年段階で、ソフトにここまで手の込んだ修正を行なっていた事は異例だったのではないだろうか?
それ程、大友克洋さん的に劇場公開版は悔いが残るものだったのだろう。
また、同じソフト版とは言え、上記のファンサイトを読むだけでも、VHS、LD、DVD、またその北米版等々により若干の仕様の相違がありそうだ。
AKIRAファン・大友克洋ファンはなかなか大変じゃなかろうかと思う。
まぁエヴァも似たようなところはあるが・・・
話は長くなったが、そういう意味でも今となっては、作品の完成度としては多少の落ち度があれど、AKIRAのオリジナルが観れる機会はなかなか貴重である。
とそのような事を口走ると、
『そんなところに価値を見出しているから、彼女出来ないんだよ。』
とは、一緒に観賞した先輩の弁。
いやはや、全くその通りで御座います(笑)
2007年10月15日 アニメ トラックバック:0 コメント:0
タモリレコードデビュー30周年記念!遂にタモリの3作品が紙ジャケ復刻!!
あのタモリが1977〜81年に発売したアルバム3作品が、12月19日に同時再発
今や、“密室芸人・タモリ”を見れるのは、年度末恒例の『徹子の部屋』出演時のみ。そんな状況下での、まさかの再発!
正直に言って、タモリが死なないと再発される事がないんじゃないかと、高を括っていましたが、遂に!
『ラジカル・ヒステリー・ツアー』に関しては初CD化。
今回の三枚以外のアルバムも、是非再発して欲しい。
ちなみに自分が所有しているのは『タモリ3』のアナログ盤。
調布のレコード店で7000円くらいで購入しました。
今回の再発で、当然中古で出回っていたものも値崩れする事でしょう。
2007年10月09日 音楽 トラックバック:0 コメント:0
映画『ストレンヂア』公式サイト
コメントを寄せているのは庵野秀明氏、水島精二氏、原恵一氏、今敏氏、神山健治氏、という錚々たるメンツ。
所謂劇場アニメで、同じ同業者の監督たちがここまで揃って、コメントを寄せるのは非常に珍しい。
監督の安藤真裕氏の人望ゆえか、はたまたボンズの南雅彦Pの手腕によるものか?
感想としては皆一様に、演出的・作画的な事を語っている側面が強く、お話的な事がこの映画において余り比重が置かれていない事が伺える。
これまた名匠・高山文彦氏のシナリオなので、未見の筆者は期待したいところではある。
しかしアニメファン的には、この名匠たちが試写会時に一堂に会したと妄想するだけで、非常に楽しい。
まぁ、別日に観た可能性も十二分にあるし、下手をすると忙しい監督たち故に、白箱で観た可能性だってあるのだけれど。
2007年10月08日 アニメ トラックバック:0 コメント:0
一話からSEED譲りの派手なドンパチをやるのかと思いきや、意外と地味にまとめていた。
軌道エレベーターなど、所謂SF的なギミックやディテールを堅実に描いていたのは、これまでのガンダム・シリーズの中でも珍しいかもしれない。こういう見せ方にしても、ガンダムSEEDの様な“馬鹿”はやらないよという、差別化を必死に図ろうとしてる努力も窺える。まぁもっとも、SFファンからすれば、軌道エレベーター出せば良いってもんじゃない、と反感を抱く人もいるだろうが。
ただ、こうして堅実に見せながらも、いきなり冒頭のアバンで、ガンダムが光の翼を生やしている訳で(ガンダムから後光が!)、やはり『今回のガンダムもこれで行きますよ。』とあそこで全てこのシリーズの方向性を“判り易く”提示している。
ガンダムは“神々しい”存在なのだ。神や仏のように。
そもそも、俗にガンダムはリアルロボットだと云われているがリアルロボットではない。ファーストガンダムの頃から、富野演出のもと、ガンダムは神懸かり的な事をやってきている。
オーラを出したり、翼や羽根を生やしたり、武道会をやったり、SDになったり、そういった“アマルガム”に何でも飲み込んできた。それがガンダムである。要するにガンダムは何でもありなのだ。
であるが故に、ファン同士で、「これはガンダムじゃない。」「これぞ、ガンダムだ。」という様な、各個人の中での“俺ガンダム”が存在しえているのだろう。
些か、この第一話だけこのシリーズを語るには早過ぎる。総括しようがない。しかし、観るべき長所も余りなかったと言える。
2007年10月06日 アニメ トラックバック:1 コメント:0
JAniCA発起人一覧
何ですか、このメンツ。
個人的に身近な人もチラホラ散見されるんですが。
このメンバーで一本アニメ作って欲しい!
って、そういう為の団体じゃないんですよね。
こんな事言うと芦田さんに怒られそう。。。
噂では、宮崎さんと富野さんは、声掛けたけど断ったらしいですな〜。
2007年10月04日 アニメ トラックバック:0 コメント:0
1995年劇場公開。原作が1989年に書かれた物だけに、主人公の暮らしなどが非常にバブリー。しかし“輝かしい日常に落ちる影”は既に90年代的であるが、それも含めてファンタジックな作品である。
監督は佐藤順一さん。
フィルムの仕上がりはまるで高畑勲作品。
もっと突っ込んで言うと「おもひでぽろぽろ」を相当意識している(はずだ)が、そのフォロワーで終わらせてしまうには実に惜しい作品である。
パイロットフィルムのキャラデ・作監が大平晋也さん。
これがまた、明らかに大平晋也爆発といった塩梅で(思わず笑ってしまうくらいだが)、独特のヌメっとした作画でグリグリ動かしている。
が、大平さんの手が遅かったらしく(これだけ動かしていたら本人の手の遅さ云々ではなく物理的に難しいと思うが)、劇場版では故・小松原一男さんがキャラデ・総作監を担当している。
ちなみにED用のアニメを丸々1カット処理で大平さんの原画でやるつもりだったが、これも結局完成に漕ぎ付けず、本編の映像を差し込んだものになっている。
噂では「崖の上のポニョ」に参加しているんだとか。
大平さんの生原画見た事なんて当然ないんだけど、動画と仕上げはニュアンスが判る人じゃないと相当難しいのではないでしょうか。線をどう拾うかで、全く仕上がりが別物になるでしょう、明らかに。
物語の終盤、主人公・野沢ひろみがようやく両親に自分の気持ちを吐露するシーンは小田川幹雄名義の磯光雄さんの原画。
氏は、あえて言う必要もないが、エヴァ劇場版の弐号機と量産機の格闘シーンやポケ戦第一話冒頭の戦闘シーンなど、荒々しいアクションとエフェクトを作画する一方で、本作の“微妙なニュアンスの芝居”を丁寧に作画する事もやってのけてしまうのには舌を巻く(どちらも“緻密な作画”である事には違いないのだが)。この辺の仕事ぶりは、現在の「電脳コイル」に通じるものがある。
ユンカース役の古本新乃輔は芝居が終始、凛凛しい。
同じ動物である「クマのプー太郎」の声を当ててるとは到底思えない(笑)
2007年10月03日 アニメ トラックバック:0 コメント:0
ひっかかりのある最終回だった。
真意が汲み取りにくい見せ方。特にCパート。
この辺については、今石監督から公に語って欲しいところだ。
しかして、アンチスパイラルとの最終決戦は震えた。
作画もハンパじゃない。(はっきり云って、それが毎回なのがグレンラガンだけども、いつも以上だった。)
最終話に来て、上川隆也の芝居も熱っぽくて良い。
戦闘中、カットインを多用して大グレン団の連中を見せる演出もニクい。
『あ〜、皆頑張って戦ってんのね。』と思う訳だ。
思えば、今石洋之さんって言う人は、グレンラガン観るまでは“ドラマが描けない人”だと思っていた。これは僕だけじゃなく、世間的(アニメファン的にと云う意味において)にも同じ印象を持っていたはずだ。
何故なら、氏の監督及び演出を担当した作品はどれも(作画だけでも良いが)、ドラマは放置して、とにかくドンパチをやる、と云う姿勢(笑)が徹底的に貫かれていたからだ。これはこれで凄い。
しかし、グレンラガンによって簡単に覆された。(シリーズ構成の中島かずきの尽力も大きいかもしれないが、ここではそれは考えない。)
“描けない”ではなく“描いていなかった”のだ。
ドラマ+ドンパチ。
急激な物語の展開による、インフレに次ぐインフレ。
【無理を通して道理を蹴っ飛ばす】
この言葉が作中で頻繁に登場したが、これこそグレンラガンの基本コンセプトであり、また最期までそれを押し切った。
今一度、考えてくれ。
『一体、グレンラガンに最終回(並みのテンションを持った話数)が何回あったのだろうか?』と。
更にそういう芸当が出来たのも、グロスを数社こそ使いながらも、クオリティを万全に支えたガイナックススタッフの恐ろしさであり、そしてその真の恐ろしさは、スタジオカラーに所謂“ガイナックスの重鎮たち”を奪われながらも、グレンラガンを作ってしまった事にあるのだ。
そして、このスタッフが今後のガイナックスを先導してゆくのだろうし、またこのスタッフが『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』に合流して、一刻でも早く完成させてくれる事を望む次第である(笑)
余談。
第一話のアバンをリフレインすると思いきや、最終話で繋げてこなかったのは、何か理由でもあるのだろうか。劇場版でもやる為の伏線か?しかしこの作品ほど、劇場版の必要性を感じられない作品も珍しいと思う。劇場版とTV版でクオリティ的に差がほぼ出ないだろう。
スパイラルネメシスの打倒も残ってしまっている。まぁでもここで終わるのが華だろう。
2007年10月03日 アニメ トラックバック:1 コメント:0
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